生野城は、天文十一年(1542)生野銀山が発見されてから拡張されたようです。秀吉が播磨に進出し、太田垣氏(山名氏の重臣)を攻撃し、生野から竹田城あたりまで羽柴小一郎を出陣させ生野銀山を確保しています。織田信長の命令だったかもしれません。その後再度但馬に羽柴小一郎を出陣させ、但馬攻略を進めています。このころ羽柴秀吉は、三木の別所氏、伊丹の荒木村重の謀反により兵糧の通路を失っていたように思います。秀吉の軍勢は兵糧に困ったと思われます。書写山圓教寺の荘園略奪、但馬侵攻で東への兵糧道確保(このころ明智光秀が福知山まで進出)は、その対策ではなかったかと思います。
生野城は、江戸時代も維持管理されていたのではないかと思います。竹田城も北の守りとして破城されなかったように思います。
生野は、姫路に流れる市川の源流です。しかし播磨ではなく但馬です。山名氏と赤松氏の争いは生野の南で行われて、ここまで赤松は攻めていないと思われます。銀の輸送は播磨、姫路に送っていたのではないでしょうか?
譜代や親藩の大名が姫路に居続けたのはそれも原因ではないかと思います。
生野城