赤穂城は、赤穂浅野氏初代長直が築城したそうです。石高の割に立派な城はどこの藩でも財政を圧迫したようです。幸い赤穂は塩田の収入がありましたが楽ではなかったようです。また、赤穂は上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていたそうです。各戸給水は日本で最初と聞いています。赤穂浪士の主、浅野長矩は3代目です。
赤穂城は、満潮時は半分ぐらいが海に浮かぶ城だったようです。
この城の銃眼(狭間)は、真ん中が狭いですが、最近見たら龍野城もそうでした。復元土塀の狭間は最近そのように復元するのでしょうか?
福井の丸岡城は、内も外も同じ四角い筒、姫路城(最近再確認したら誤りでした)や明石城は、内側が狭く、射角を確保してあります。違和感がありました。
<姫路城は、赤穂城や龍野城と同じでした。逆に姫路城を真似たのかもしれません。射撃の範囲と、兵の被弾を防ぐのとを両立させるとこの形になるのかもしれません。>
最後に、江戸時代も落ち着いてから築城された城には、実戦に使うには改造が必要な構造を強いられたのでは? と思います。
赤穂城の石垣の上は土塀に厚さ程度の平面があるだけで銃を持った兵が立てませんし、兵の後ろを補給などで人が通る通路などはありません。戦時に材木で作ることは可能ですが、すぐに籠城はできないでしょう。
備中松山城の天主も、表と裏の板の間には石など充填されてないので、銃弾は簡単に貫通します。この城も戦争するには改修する必要があります。